「敬」と「恥」

おはようございます!BAISOKUの吉沢です。

人間が人間であるゆえん、人間が動物と違うところ、それは
「敬」と「恥」をもっているところだと常々感じています。

「敬」うやまう心、自分より大いなるものを恐れ、尊いと感じるこころ。
高みに近づこうと努力すること。
ありがたいと感じる気持ち。

「敬」と「恥」はセットです。

尊敬する安岡正篤師の言葉を借りると:

恥を知れば必ず敬を知る。敬を知れば必ず恥を知る。
敬はより高き尊きものに対する人間の感情である。
敬するを知れば、自ら省みて恥ずるようになる。
人間と動物との違いもつきつめると、恥を知ると知らぬとに帰する。
だから人を罵る一番の語を「恥知らず」「恥を知れ!」という。

だから、「厚顔無恥」は成長を止めるが、「恥」は成長の源となるんですね。

省みて、経営者や人の上に立つもの、教育者、父母もそうですが、
それらの人は、社員や後進の者、子供たちから
「敬」の対象にならなければいけません。

恥知らずをつくってはならないのです。

人として、経営者として、世間様に、お客様に、
きちんと顔向けできる人であり、社員であり、
製品でありつづけるため、
今日も恥を知って精進しています!

◆今日の一言

孟子はこう言っている。

「恥じる心は、人間にとって、とても大切なものである。
臨機応変にごまかしばかりやる人は、恥というものがないのだ。
人に及ばないことを恥じない者は、
どうして人に追いつくことができようか」

と。つまり、恥じるから人は学問し、成長しようとするのです。
恥を知ることが成長するうえでの動機となる。
ちなみに、孔子は「敬」をよく説いているのに対して、
孟子は「恥」を力説している。
恥というのは、いまの自分の状態を省みたときに抱く心で、
現実に即したものです。
これに対して、敬は現実に甘んじないで、より高いもの、
より貴いものを求める心であり、理想主義的である。
両者は、恥を知るから敬を知り、敬を知るから恥を知るという関係にあり、
一対のものである。
敬と恥の本能が人間の学問・文化を発達させた。

安岡正篤